『高石かるた』のご紹介

9月9日(土) 高石かるた製作委員会(高石商工会議所内)では完成記念大会を予定しております。

詳細が決まりましたら改めてご連絡致しますが、かるたの詳細をアップいたしましたのでご参考に!!

綾井(あやい)(じょう) なごりのお(ほり) 專稱寺(せんしょうじ)

【專稱寺(綾井城)】

正式名は城蹟山無量寿院專稱教寺と言います。開山は、浄土宗の 僧玄誉永徹で、今の泉大津市助松で創建され、文禄2年(1593)に弟子の聖蓮社締誉により綾井城跡の現在地に移されました。

綾井城は高石に居住した綾井氏によって13世紀後半から末葉に築城されました。戦国時代末期の16世紀後半、織田信長の家臣であった沼間氏が入城し、天正4年の大阪川口の合戦で戦死すると、城が荒廃し、その跡地に現在の專稱寺が建立され、約1町(109m)四方の寺域や門前の濠は、綾井城のありし日の姿をとどめています。

いいだこの たこ(つぼ)()た 大園(おおぞの)遺跡(いせき)

【大園遺跡】

西取石から綾園にかけての一帯、さらに南は泉大津市・和泉市にまたがって東西1.4㎞、南北1.1㎞ほどの範囲に広がる広大な遺跡です。その中に、5世紀後半~6世紀の古墳時代集落が10ヶ所あまり点在しています。水田にしやすい低地の近くに立地することから農耕に依存していた村であり、たこ壺や漁網の錘がたくさん出土することから海での漁なども行っていたと考えられます。

歌枕(うたまくら) 高師(たかしの)(はま)は (おお)くの和歌(わか)

【歌枕「高師浜」】

高師浜は、青く澄んだ海沿いに白砂青松がつらなる景勝地として古代から有名で、多くの和歌に詠まれてきました。平安時代の終わりごろには、波の歌枕として一般化していたことも知られています。「音に聞く 高師の浜の あだ浪は かけじや袖の 濡れもこそすれ」は、後朱雀天皇の皇女祐子内親王に仕えた女流歌人「紀伊」が詠んだ和歌です。

江戸(えど)時代(じだい) (じゅう)(むら)が ありました

【高石の村の移り変わり】

高石は、和泉国大鳥郡に属し、江戸時代を通じて幕府の領地でし     た。寛永年間(16241643)の和泉郷村帳によれば、現在の高石市域に、綾井高石村・今在家村・新村・富木村の4ヶ村があり、その後綾井高石村は綾井村と高石村に分かれました。その後綾井村は市場村・南出村・大園村・新家村・土生村の5ヶ村に分かれ、元禄年間に高石村は北村と南村に分かれるという経過をたどって計10ヶ村となり、江戸時代を通して高石を形作ってきました。

大阪(おおさか) みどりの百選(ひゃくせん)に 伽羅橋(きゃらばし)公園(こうえん)

【伽羅橋公園】

大阪の優れたみどりの景観を再発見し、みどりに対する関心と大阪への愛着を深めようと「国際花と緑の博覧会」を記念して、平成元年(1989)に府民が投票、257千通を超える投票の中から、伽羅橋公園は「大阪みどりの百選」に選定されました。   

環境(かんきょう)を (まも)水辺(みずべ)の (あし)田川(だがわ)

【芦田川】

芦田川の名の由来は「大鳥神社流記帳」に記載されている「葦田      浦」によるものと思われますが、葦田浦は芦田川流末の海岸地域を示しています。

水源を和泉市小野町の信太山自衛隊演習付近の段丘地に発し、鶴田池等のため池を通過し、高石市の市街地を貫流して大阪湾(浜寺水路)に流入する二級河川です。現在、地域住民にとって安全で快適な水辺空間を創出するための改修工事が行われています。

市では、ふるさとの川整備事業として河川本来の自然環境の保 全・創出、水に親しむことのできる水辺空間の形成を目指し、芦田川の整備工事に取り組んでいます。

 伽羅(きゃら)(ばし)は 香木(こうぼく)(かお)り 千貫(せんがん)(はし)

【伽羅橋】

伽羅橋は、かつて芦田川に架けられていた紀州街道の橋です。

「泉州志」には、昔この橋が香木である沈香(伽羅)でできており、売ると千貫になったとの伝承があり、これが橋名の由来となったのでしょうか。

天和3年(1683)に今井七郎兵衛が付け替えた橋は、幅1間・長さ6間の木橋で、橋板は檜、橋げたなどは松でした。その後、架け替えが行われ「紀州海道土橋」となります。幕末になって、大阪湾警備の大砲や警備兵が行き来するようになり、慶応元年(1865)に花崗岩製の頑丈な橋に付け替えられました。

石橋は、昭和63年(1988)の芦田川改修工事で高砂公園に移設され、国の登録有形文化財に認定されています。

(くず)()(えき) 明治(めいじ)開業(かいぎょう) (いま)高石駅(たかいしえき)

【葛の葉駅】

阪堺鉄道(現在の南海電気鉄道株式会社)は、明治18年(1885)難波大和川間を開通させました。さらに延伸工事が行われ、同31年(1898)和歌山北口まで開通しました。

浜寺公園から泉大津間に駅はなく、葛の葉稲荷神社の大祭の日の 参拝の便と地域発展のため、同34年簡易停車場として「葛の葉駅」が設置されました。その後、同40年には駅長駅員常駐の常設の駅となり、昭和18年(1943)高石町駅に改名、同41年に「高石駅」となり現在に至っています。

境内(けいだい)は むかしの砂丘(さきゅう) 大鳥羽衣浜神社(はまじんじゃ)

【大鳥羽衣浜神社】

大鳥大社の四つの摂社のひとつで、江戸時代には井伊守明神とも     言われ、社殿前の井戸の水は神水として尊ばれました。海岸砂丘に     立地し、きれいな水が豊富に湧くのでしょう。

周辺一帯は、弥生時代~中世の遺物が出土する羽衣砂丘遺跡で、漁撈具が出土することから海と深くかかわりながら暮らす人々の集落があったことがわかります。

五時(ごじ)ですよ」 (とも)とバイバイ また明日(あした)

【防災行政無線】

防災行政無線は臨海地区を含め市内47箇所に設置されており、災害時には緊急情報などが放送されます。

高石市ではシステムの起動テストを兼ね、午後5時と午後55分の2回に分けて、児童に帰宅を促す放送を実施しています。

さらさらと (あや)()りなす 綾井(あやい)()(みず)()()

綾井の清水】

綾井という地名の由来となった湧き水で、綾園2丁目の一角にあります。綾織のように美しい水が湧くところから綾井と呼ばれるようになったと地元で伝えられています。

清水の近くで7世紀の掘立柱建物が見つかっていることから、古 代の用水路を受け継ぐものと思われます。

住民(じゅうみん)が (つど)い (いこ)う (はま)(でら)公園(こうえん)

【浜寺公園】

古くより白砂青松で有名であった浜寺の地で、明治時代のはじめ に耕地化計画などによって松の伐採が進みましたが、それを惜しんだ内務卿大久保利通の意向により、堺県令が伐採の中止を命ずるとともに公園設置を太政官に願い出て、明治6年(1873)に浜寺公園が設置されました。同14年に堺県が廃止され大阪府に合併した際も府に引き継がれ、大阪府で最初の府立公園として現在に至り、府営のプール・バラ園・交通遊園、また野球場・テニス場などが設備され、高石市民はもとより多くの府民に親しまれる公園として賑わっています。

 砂浜(すなはま)の おもかげ 漁港(ぎょこう)とマリーナに

【高石マリーナ

高石マリーナは、大阪湾では最も歴史あるマリーナの一つであり、ボート免許(小型船舶操縦士)の講習が行われております。

保管艇はモーターボートのみでヨットはなく、陸上保管が中心で 2528フィートくらいの船内外機が多い。

高石漁港は、浜寺水路沿いの一角に位置し、第1種漁港です。

その高石漁港の北側に、平成12年(2000)より高石青年会議所が中心となり、白砂青松の美しい景観を復活するため、定期的に清掃を行い、平成16年に約70トンの砂を入れ茅渟の浜を呼び戻しました。

(せん)()()き 大工(だいく)(むら)の 大発明(だいはつめい)

【大工村】

高師浜1丁目一帯は、江戸時代には高石北村と言いましたが、住民の多くが大工職に従事していたので、一部の地域は大工村と呼ばれていました。京都大工頭中井家の支配下にあった高石組大工は、朝廷や幕府などの建築に携わり(現在の京都御所の造営にも参加)、引き換えに諸役免除の特権を与えられました。この特権を持つ大工を引高株持といい高石組の株持はほとんどが高石大工村の者で、原則として世襲されてゆきました。また、生産性を飛躍的に高めた脱穀用農具「千歯扱き」は、大工村で元禄年間(16881704)に発明されました。

その(むかし) 参勤(さんきん)交代(こうたい) 紀州(きしゅう)街道(かいどう)

【紀州街道】

羽衣~高師浜~千代田の海に沿った砂丘の上を南北に通る道は、江戸時代には紀州藩の参勤交代に使われ、紀州街道と呼ばれました。総延長50㎞、大阪と和歌山を結ぶ幹道のひとつで、重要な産業用道路でもありました。大阪市中央区の高麗橋通堺筋を起点に、住吉大社から堺旧市街の中心を抜けて浜寺公園の東側を沿って高石に入り、伽羅橋、小高石橋を越え、泉佐野鶴原を分岐して和歌山城へ至ります。

大雄寺(だいゆうじ) 南朝(なんちょう)ゆかりの (はま)(てら)

【大雄寺の碑】

大雄寺は、南朝の後村上天皇から厚い帰依を受け、三光国師の勅号を賜った孤峰覚明が南北朝時代天平年間(134670)のはじめに建てた禅宗寺院で、開創の日には後村上天皇も貴族官人を率いて臨幸しています。その後、南朝の重要な政治的拠点としての役割も担いましたが、南北朝統一後は衰退を余儀なくされ、明和2年(1765)には廃絶したようです。大雄寺は高石にあったことは間違いありませんが、具体的な場所は不明で高師浜2丁目あたりに伽藍を構えていたと推測されます。これを記念して大正4年に大雄寺旧跡碑が建てられました。現在、伽羅橋公園内にあります。

茅渟(ちぬ)(うみ)を (はる)かに(のぞ)む (とろ)()(いけ)

【取石池】

「妹が手を 取石の池の 波の間ゆ 鳥が音異に鳴く 秋過ぎぬらし」と万葉集に詠まれた取石池は、昭和16年(1941)に水田化されるまで、取石6丁目の泉北クリーンセンター一帯に広く水を堪えていました。寛政3年(1791)に市場村から役所に出された「溜池掘浚御願ヶ所帳」に「取石池 壱万六千三百八十五坪」と記されています。

また、「続日本書記」に神亀元年(7241021日、聖武天皇が紀伊行幸からの還りに「和泉国所石頓宮に至る」とあります。このことから取石池の西側には熊野街道(茅渟道)が接し、難波と紀伊を結ぶ道近くに仮の宮が置かれた様子がうかがえます。

通学(つうがく)() 元気(げんき)にあいさつ 高石(たかいし)()

【高石っ子憲章】

「高石っ子憲章」は、昭和61年(19867月に非行やいじめを防止し、青少年の健全育成をより具体化するため、また、本市の高石っ子自身がめざす目標として制定されました。

この憲章では、高石っ子が自ら豊かな社会をつくり出し、たくましく生き抜く人間に成長することを願い、互いの人権を尊重する人間、思いやりのある人間、いかなる困難にも立ち向かう意思の強い人間、人や郷土・地域を愛し社会に役立つ人間になろうなど、8つの理念を提唱しています。

鉄道(てつどう)の (えき)(むっ)つ 交通(こうつう)便利(べんり)高石市(たかいしし)

【高石の駅】

本市は、市域が11.30k㎡というコンパクトな地域でありますが、市域の概ね半分を占める内陸部に、JR西日本阪和線の富木駅、東羽衣支線の東羽衣駅、南海本線の高石駅・羽衣駅、南海高師浜線の高師浜駅・伽羅橋駅の六つの駅が存在し、大阪の中心部まで約20分、関西国際空港にも20数㎞と近く、便利で住みよい住宅地です。

殿(との)()(むらじ) 高志(こし)(むらじ)は 古代(こだい)氏族(しぞく)

【殿来連・高志連】

殿来連に関しては、「続日本記」天平勝宝4年(752)の条に中臣殿来連竹田売と記載されており、中臣氏の一族である殿来連が祖先神である天児屋根命を等乃伎神社に奉祀したことから、取石地域に殿来連が存在したと思われます。

高志連に関しては、「続日本記」天平神護2年(76612月に乙酉条に記載されており、明証はないですが高石地域に高志連が存在しました。式内社の高石神社についても、高志連の祖王仁を祭神したとする説があります。

 奈良(なら)時代(じだい) 治水(ちすい)尽力(じんりょく) 行基(ぎょうき)菩薩(ぼさつ

)【行基】

行基は、天智の称制7年(668)に高志才智を父に、峰田首虎身の娘、峰田古爾比売を母として生まれました。全面的に信用することは出来ませんが、行基は母方の峰田首の家(家原寺)で生まれたことは確かです。天平年間の行基の活動として、奈良東大寺の大仏の造立や鶴田池の築造に活躍した僧であることが有名で、父方の高志才智の関係で、高師浜1丁目付近の大工村は行基に率いられた末裔の村であると伝承されています。

 日露(にちろ)戦争(せんそう) 浜寺(はまでら)俘虜(ふりょ)収容所(しゅうようじょ)は 友好(ゆうこう)(あか)

【浜寺俘虜(捕虜)収容所】

明治37年から38年(19041905)の日露戦争では、ロシア兵の俘虜が約8万人にのぼり、日本の各地に29カ所の収容所が設けられました。高師浜・千代田から一部は泉大津市助松におよぶ沿岸部に設けられた浜寺ロシア人俘虜収容所は、その中で最大規模のもので、多い時は28千人を超すロシア兵が収容されていました。当時の高石村の人口は3500人余りで、村人にとっては大きな出来事でした。当時の資料によると俘虜は寛大な処遇を受け、高石村住民との交流もあり「敵国俘虜を手厚く待遇するという武士道精神に感銘を受けた」と話す俘虜の話も残っています。戦争が終結する同392月に俘虜の送還が終了し収容所は閉鎖され、その後、高級住宅地へと変貌しました。なお、収容中に亡くなったロシア兵は泉大津の共同墓地に手厚く葬られました。このような地域の歴史を伝え、日露友好親善の架け橋となるよう平成14年(2002)に日露友好之像が建立されました。

 ()きん()る 人口(じんこう)一人(ひとり)()たりの 製造(せいぞう)出荷(しゅっか)(がく

)【製造出荷額】

平成25年(2013)の全国工業統計で、高石市の製造出荷額は97398232万円となっており、全国主要都市790のうち60位、大阪府下では5位ですが、人口一人当たりは1673万円(2位は池田市の485万円)、従業者一人当たりは26274万円(2位は堺市の7003万円)と大阪府のなかで突出しています。

 年貢(ねんぐ)(だか) 農民(のうみん)一揆(いっき)は 千原(ちはら)騒動(そうどう

)【千原騒動】

江戸時代18世紀後半は、年貢の増徴・肥料の値上がり・天候の不順などが重なり、農民の生活はきわめて苦しい状況に置かれていました。そのような中で、和泉一橋領54ヶ村も、再三にわたり年貢の減免などを求めましたが認められず、天明2年(1782200ほどの農民が貝吹山(和泉市)に集結し、年貢の取り集め役のひとりであった千原村(泉大津市)庄屋の家を襲って打ちこわした農民一揆が千原騒動と呼ばれています。その指導者のひとりで、村民のために犠牲となった冨木村の土井忠兵衛のことは、長く村に伝えられ明治37年(1904)楷定寺に碑が建てられました。

 ()数万人(すうまんにん) 大盛況(だいせいきょう)の フェスティバル

【高石商工フェスティバル】

昭和58年(1983)より、高石商工会議所主催により、市内商工業の活性化を図るため、市民多数の参加を呼びかけ、商工業者の交流を深めながら、その躍進を期待し、推進していくことを目的に毎年開催しているイベントです。

毎年延べ35万人が鴨公園に来場し、大盛況の中、消費者デー・高石で生まれ展も同時開催しています。

 (はま)千鳥(ちどり) ステンドグラスの 高師浜駅(たかしのはまえき

)【高師浜駅】

南海電気鉄道高師浜線は、沿線開発のため大正7年(1918)に羽衣駅~伽羅橋駅間、さらに翌年に伽羅橋駅~高師浜駅間が設けられました。高師浜駅はその終点で、開業当時の西洋風駅舎が残されています。

正面入り口上部には波の上を舞う浜千鳥が描かれたステンドグラスがはめ込まれています。

 (ひか)貝殻(かいがら) かざりやボタンに (かい)細工(ざいく

)【貝細工】

千代田一帯では、明治時代後期より、漆器や装飾品の材料として貝殻の加工品が盛んにつくられ、日本各地に供給されるとともに、外国にも輸出されました。

高石南村の村田正五郎が農業の副業として貝殻加工(鮑貝摺)に着目し、明治29年(1896)に職人佐伯兼松を大阪から招いてつくった小さな工場がそのはじまりです。その後、高石町の農家約600の内150戸ほどが従事していましたが、輸入品やプラスチックの進出などにおされ、だんだんと減ってゆきました。

現在では、市内で従事されていません。

 福祉(ふくし)バス ()らしを(まも)る 地域(ちいき)(

)【福祉バス】

福祉バスは、60歳以上の方、障がいのある方、妊婦、乳幼児を連れた方が無料でご利用できる市内循環バスで、市内の公共施設等を巡回しています。

市役所発着の「らくらく号」と、ふれあいゾーン発着の「ふれあい号」の2台で、運行日は月曜日~金曜日となっています。

(祝・休日及び年末年始を除く。ただし敬老の日は運行します。)

※「ふれあい号」は土曜日も運行しています。

 弁慶(べんけい)の ()りものかざる 山車(だし)もあり

【弁慶と地蔵】

800年程むかし、吉野を追われた義経主従16人は、奈良へ向かう途中に取石池のほとりに立ち寄り、弁慶が「子宝地蔵」をつづらに入れ、重いつづらを背負って奈良から京都へ入り、越前へ向かう途中の三ノ口の関所で関守の取り調べを受けました。その時、弁慶は「これが熊野権現から羽黒へ持っていくように頼まれた地蔵である」と伝え、無事に関所を通過しましたが、子宝地蔵があまりにも重いため、関所近くの草むらに降ろしたそうで、今も「取石へ帰りたい」と石の地蔵は毎日泣いているそうです。

この昔ばなしに登場する弁慶の彫物を飾った山車が泉州路を中心に多く見られます。

 防災(ぼうさい)の (たし)かな拠点(きょてん) カモンたかいし

【カモンたかいし(市立総合体育館)】

鴨公園の一角に完成した市立総合体育館は、市民の健康増進と体力づくりのための各種スポーツ活動の場として、平成27年(20154月にオープンしました。

また、防災拠点施設として、照明や空調を稼働できる大型発電機などさまざまな防災機能があり、災害時に避難される方のために、備蓄倉庫を設けて生活備蓄品なども備えています。

 松林(まつばやし) (いま)(のこ)した 明治(めいじ)元勲(げんくん

)【羽衣の松】

古くより白砂青松で有名であった浜寺の地で、明治時代のはじめに耕地化計画などによって松の伐採が進みましたが、それを惜しんだ内務卿大久保利通が「音にきく 高師浜のはま松も 世のあだ波はのがれざりけり」と歌を詠み伐採中止を命じました。堺県令はただちに伐採の中止を命ずるとともに公園設置を太政官に願い出て、明治6年(1873)に浜寺公園が設置されました。

残された名松のひとつ傘松は羽衣の松と呼ばれて地元のひとびとに親しまれるようになり、駅名や地名の由来となりました。

 宮本(みやもと)常一(つねいち) (とろ)()(むかし)を 文集(ぶんしゅう)(のこ)

【宮本常一】

宮本常一(1907年~1981年)は、戦前から半世紀にわたって日本の各地を歩き、貴重な記録を残した著名な民俗学者です。

昭和9年(1934)に養徳尋常高等小学校に赴任、9月の台風で同学校が倒壊、廃校になって転勤、同10年から14年まで取石小学校の教員をつとめました。その間、教え子と一緒に地元の伝統的な暮らしや昔話などを調べ、同12年にガリ版ズリの冊子『とろし』(本書は大阪府泉北郡取石村の小学校6年生児童調査による村の生活誌です。)を発行しました。昭和初期の高石の様子がよくわかります。

現在、この冊子は教え子を通じて高石市に寄贈されています。

 むくろじの 大樹(たいじゅ)(あお)ぐ 高石神社(たかいしじんじゃ

)【高石神社】

平安時代(10世紀)の「延喜式」神名帳に記載される古社で、式内社と呼ばれます。現在の祭神は、少彦名神・天照皇大御神・熊野坐三社ですが、それらの神を祀るようになった由緒や時期はよくわかっていません。本殿は、享保(18世紀前葉)頃の建立とされ、寛8年(1796)の和泉名所図会には「高志の祖王仁を祭る 今天神と称す」とあり、行基の父である高志才智らが大工の技術を教えたとする大工村の伝承とともに、高石神社一帯が高志氏の里と考えられていたことを示唆します。境内には歌碑が残っています。

 メダルは(きん) ベルリン五輪(ごりん)の 水泳(すいえい)葉室鐵(はむろてつ)(

)【葉室鐵夫】

大正6年(1917)福岡県福岡市の出身、日本の元競泳選手で昭和11年(1936)ベルリンオリンピック200m平泳ぎで金メダルを獲得、同15年に引退するまで200m平泳ぎで世界ランキング1位の座をを守りました。引退後は毎日新聞社へ入社し、運動部記者としてアメリカンフットボールの甲子園ボウル創設に携わり、平成2年(1990国際水泳殿堂入りを果たしました。晩年は高石市へ居住し名誉市民となり、平成17年に88歳で逝去。

平成23年(2011)功績を讃えられ「スポラたかいし」に記念コーナーが設置されています。

 もりあがれ だんじり囃子(ばやし)で 高石(たかいし)まつり

【高石だんじりまつり】

戦前・戦時中は「上だんじり」を中心にまつりを行っていましたが、戦後、一部の村を除いて衰退し、その後は「花車」などで行われていました。昭和の終わりからは正式な「だんじり」を復活する地区が増え、現在では市内に16台の「だんじり」があり、毎年10月にその勇壮な姿を披露しています。

 弥生(やよい)時代(じだい) 太陽(たいよう)信仰(しんこう)() ()乃伎(のぎ)神社(じんじゃ

)【等乃伎神社】

平安時代(10世紀)の「延喜式」神名帳に記載される式内社です。その名称や富木という地名などから「続日本記」に見られる殿来連との関係を想定させる古社です。神社近辺の富木の集落一帯は、殿来氏の本貫地と考えられ、南側には芦田川やその支流が流れる広い谷があり、その谷の上流には取石池や行基が院を構えたとされる鶴田池などがあり、殿来連が7世紀以降の国家的開発にたずさわった氏族であることを示唆します。

 夕映(ゆうば)えの コンビナートに 太陽()が沈む

【臨海コンビナート】

堺泉北臨海工業地帯は、昭和31年から47年(19561972)にかけて、旧大阪府企業局が堺・高石・泉大津の沿岸を埋立て造成した約1700万平方メートルの人工島に、石油化学産業・鉄鋼・機械工業・物流・電気など約250社の事業所が集結した臨海コンビナートです。

高石においては、同36年(1961)より造成工事が開始され、問題や課題はあったものの、その克服に努力を重ね、コンビナートの躍進は高石の発展に大きく貢献し、同41年(196611月に高石町から高石市へ移行し現在に至っています。

 洋風(ようふう)の レトロなたたずまい キャラバシ(えん

)【キャラバシ園跡】

大正7年(1918)に南海電鉄高師浜支線の羽衣駅と伽羅橋駅間が開通、翌8年には高師浜駅まで延伸されました。それと呼応して高級住宅地がつくられ、伽羅橋駅南東には「キャラバシ園」が開かれ、十数軒の洋風住宅が建設されました。アメリカ風の洋風建築でまだ珍しかった地下室にボイラーを設置し、スチーム式の暖房設備があり、各戸の便所は水洗式で、当時の雑誌で「高師浜に浮き出た桃源郷」と紹介されました。

現在でも赤木家住宅がキャラバシ園の歴史を伝えています。

ランナーが (ちから)(かぎ)り 泉州国際市民マラソン(泉州マラソン)【泉州国際市民マラソン】

平成5年(1993)より、泉州94町が、一丸となって開催しているフルマラソン大会で、約5千名のランナーたちが、風光明媚なコース(堺市~泉佐野市)を駆け抜けます。

 臨海(りんかい)の 夜景(やけい)ツアーが 大人気(

)【夜景ツアー】

平成24年(2012)より、高石商工会議所の主催で、工場の夜景が美しい堺泉北臨海工業地帯(堺市・高石市・泉大津市)を巡るツアーが人気を集めています。

様々な色のライトに照らし出される配管やタンク、煙突などの姿が幻想的で、写真愛好家や家族連れなどで賑わっています。ツアーは不定期ですが製油所や石油化学工場などを回り、同27年からはチャーターした漁船から普段は見ることのできない、海からの夜景を楽しむ「夜景クルーズツアー」も大好評です。

 るんるんと スケート(たの)しむ 臨海(りんかい)スポーツセンター

臨海スポーツセンター】

昭和47年(1972)に年中滑走可能なアイススケートリンクを始め、体育館や会議室等を有する複合スポーツ施設として完成し、府民のポーツ振興及び文化的な集会に利用されてきました。しかし平成20年(2008)に、大阪府より廃止するとの方針が示され、存続するためには改修費の半額を集めることが条件との提示がなされ、「臨海スポーツセンター支援の会」がその額15千万円を寄付として集め、同センターを練習拠点としていたフィギアスケート選手の高橋大輔・町田樹・村主章枝を通じ大阪府へ寄附し存続が決定されました。現在でも多くの府民が利用しています。

 連続(れんぞく)立体(りったい)交差(こうさ) 未来(みらい)(きず)く 交通網(こうつうもう

)【南海本線・高師浜線連続立体交差事業】

平成8年(1996)に都市計画決定、同97月に事業認可を受け、羽衣1丁目~綾園7丁目までの道路交通の混雑緩和や踏切における事故や渋滞を解消するとともに、鉄道によって分断されていた市街地の機能が一本化され魅力ある街づくりの実現のため、事業延長4.1㎞(本線3.1㎞、高師浜線1.0㎞)、踏切除去数13箇所で、南海本線の下り線は同28514日に高架運行を開始しました。早期の完成を目指し、現在南海本線上り線の工事を進めています。

 ㇿミタ()は 友好(ゆうこう)つなぐ 姉妹(しまい)都市(とし

)【ロミタ市】

昭和56年(19818月に高石とロミタの両市民が、教育・文化・産業・経済を通じて緊密な連携と交流を行い、相互に理解を深め国際親善を促進するために高石市姉妹都市協会を設立し、同年10に姉妹都市提携を行いました。ロミタ市は、アメリカ合衆国のカリフォルニア州ロサンゼルス市の南40㎞、ローリングヒルという美しい丘の麓にあり、隔年ごとに交換学生の派遣・受入を行っています。

 和気(わき)あいあい みんなが(あつ)まる アプラたかいし

【アプラたかいし】

アプラたかいしは、平成15年(20032月に高石市の玄関口に豊かさを創造するコミュニティの発信基地として誕生しました。この施設は、市民の方々やこの地を訪れる多くの方たちに、ご愛顧いただきたい店舗、地域交流の場としての文化活動拠点である図書館や市民文化会館などの機能を有した施設です。

 ん・そーか 高石市(たかいしし)がよくわかる 高石(たかいし)かるた

【高石かるた】

高石市が、平成28年(2016111日に市制50周年を迎えるに辺り、高石市・高石商工会議所・高師浜ロータリークラブが、郷土かるたを製作することにより、市民がより郷土を知り、子ども達にも歴史が伝わり、改めて高石市の良さを知ることが出来、後世に伝承されることを目的に作成しました。